ヨガを、まとめてみる。

アシュタンガ・ヨガを始めた頃に知り合えて、カラダについての理論的な事(のサワリ)を聞きかじったり、僕が進みたい方向性に気づいていく過程の中で、ほんの時々なんだけど、さりげなーく勝手に導いてもらっちゃってた、くらさんってカラダのスペシャリスト(ヨガの先生でもあるんですけど)が住む、伊豆高原に行きました。

くらさんの相棒さんは、はるさんといって、漫画「ピンポン」とか描いてる松本大洋さんの親父さんで(うわぁ僕、売名行為)、本を3冊書いてます。昨日は、くらさんとカラダについてのお話をしたり触ってもらったりした後に、3人でビールとかジンとか焼酎とか(をほんの少々)飲みながら、お話(つか、ほぼ僕の質問コーナーか)できる機会がありました。

帰りが遅くなったので、近くのペンションに泊まる事になりました。で、そのペンションでは、はるさんの書いた本を売っていたので、くらさんの家で、前になんとなく座り読みしてたくらいだったから、買っちゃいました。2冊。

で、翌日。まんま八王子に帰るのも能がない気がして「ザッツ海水浴っていったらドコですかねぇ」ってペンションのオーナーに質問したら答えてくれた「伊東」の海岸の、サンハトヤのしばらく西側で、、何年ぶりかの「海水浴」を野郎一人でしながら(僕が確認した範囲では、野郎一人の海水浴者は一人でしたエッヘン)はるさんの書いた本を読んでました。途中であんまりキレイとはいえない砂浜に落として表紙が破けたりもしながら、お陰で「読書焼け」でカラダじゅうが今日はヒリヒリ散々です。

はるさんの書いた本は、とても簡単な言葉で書かれていて、たぶん深くて、当たり前で、なんとなく進行してるようで、ところがとても体系的に僕には感じられました。僕には、その「体系的」なところが薄いってゆーか、体系的になるのを怖がっているフシを自分でも感じ始めてたので、でも最近、僕がヨガを教えてる人が教え始めて、(今の時点でのだけど)体系的になる必要っつか順番を感じ始めてたので、三連休初日の伊東のカンカン晴れの紫外線の下で、なんだか深いような気持ちになってしまいました。

で、僕が今やってるアシュタンガ・ヨガって、今の僕から見たら何だろうって、電車の中で考えてみました。
で、気づいたらしき事。

僕は、アシュタンガ・ヨガは「やるヨガ」だと思ってます。
で、僕は何をやってる?

今は「骨盤底を引き上げながら、呼吸と動作を規則的に同調させながら、集中の極みとしての瞑想の状態に近づいていく。」
事をしようとしているんだと思ってやってます。で、僕も含めて入門段階のアシュタンギは(アシュタンガの世界では、最初の10年は初心者だって良く言われますよね)その事に焦点をあわせていれば、あんまり道を間違えないんじゃないかとも、けっこう信じてます。

で「深い呼吸をしながら、その延長線上の動作として」アシュタンガ・ヨガのポーズをする(できるようになる)には、先ずは肛門を引き締めたり引き上げたり、腹筋群をうまいことコントロールしたりする必要があって、「呼吸と動作を同調させて」その日のアシュタンガ・ヨガのプログラムを最後まで行う為には、それができる(集中や持久力が途切れない)範囲のポーズを取るような制約を設けたり、ポーズや呼吸・その二つをリンクさせる順番を完全に覚える必要があって、「より集中」する為には、いろんな意味でのバランス感覚が必要だったりすんだと、今は思ってます。

で、鈍行的急行電車の中で、その「なんで骨盤底を引き上げながらやるのよ?」について、ぼくなりに「体系的」に考えてみたんです。

骨盤底を引き上げる事で、なにが起こりうるのかしら?の僕が今思ってる3つ。

1・呼吸が深くなる。
  
 僕たちは第一義的には「横隔膜を引き上げたり引き下げたり」する事で、呼吸を、ほとんどは無意識にしてますよね。横隔膜を、吸う時にガッツリ下に下げられたら、吐く時に、まるで鳥が大きく羽ばたくがごとく「より高く引き上げ」れたら、あったり前ですけど沢山のいらなくなった空気を出せるし、その分、新しくいただけるのも、より新鮮な物に代えられるワケですよね(この辺りは外呼吸ってのの範疇って言っていいのかしら。)

で、この先ずは「量」的な変化がもたらされる事で、こんどは血液とか酸素の流れに深く関わってる筋肉にも変化は起こるわけですね(そろそろ内呼吸の範疇かな)。より多い酸素とかが筋肉に供給されれば、それを運ぶ「流れ」を作る環境とかの「質」的向上にも繋がっていってるだと感じます。これは筋肉の疲労とか回復にも関わってくるポイントでもありますよね。

さらにさらにヨガ・ワールドでは、この呼吸って作業で出し入れされる物も「プラーナ」とか「アパーナ」と称して、つまり「単なる空気とか酸素とか二酸化炭素の出し入れ」とは見なさないで「生命エネルギーが織り成すダイナミズム」みたいにみてますから、まとめると、この「呼吸が深くなる」って事は量的にも質的にも「エネルギー効率を高める」って事に近そうですね。

2・背骨が、伸びる。

普通にストレスが溜まったり、カラダが疲れたりキモチまで萎縮したりしたとき「背骨を伸ばす」とキモチが良いはずですけど、その延長線上な気がします。
背骨の一部である腰骨(腰椎)をより伸ばそうと思ったら、物理的に骨盤と肋骨が離れれば言いワケで、骨盤さえソコに止まってれば、横隔膜が引きあがれば、それに引き連れられて肋骨も引きあがって目的達成できる、ハズですね。背骨って、神経系とか、人間が生きたり感じたり動いたりするのの根幹に関わるような大事なモノが行きかう、人間の最重要幹線つか本線ですよね。背骨を(無理しないでぇ〜)伸ばした状態でアシュタンガ・ヨガができれば、「最重要幹線道路」を渋滞させずに、スルスル大事なエネルギーなり情報が行き来できますね。加えて(ながーい地球なり世界の歴史からみたら)いきなり二足歩行を始めたヒトの宿命「腰への負担(特に腰椎なのかな)」を、かなり革命的に減らしてくれるとも思うし、日々感じてます。

兎も角、運ばれるものの次は、それが通る「道」ですね。もちろん幹線道路ばかりじゃなくて車も通れないような細道だって、より良く流れてる(伸ばされてる)に越したことありません。

3・そして、自分を操る。

なるべくイイのを運ぼう、道の整理もできる範囲でしよう、が決まってきたら、あとは「どっちへ」「どこへ」運ぶかですね。
より内側へ、や下から上へ(結果としては「より隅々まで、」も含んでいるのですが)と向かう「方向性を持つ、身体操作としてのバンダ(って呼んじゃった)」のアプローチが導いてくれるのは、さらに大きな(根源的な)方向性にも関わってくるんじゃない?とも思ってます。

アシュタンガ・ヨガを始めて最初の頃は、だいたい「あたしはカラダが硬いぃ〜」とか「チカラが足りないぃ〜」とか「1時間半も体力も集中力も持ちましぇ〜ん」みたいなグチから始まりますよね(^^;僕も今でもしょっちゅう言ったり心の中でボヤいたりしてますが、これは後々「(量的にも質的にも)どのくらい瞑想できるか。」に関わってくるトコだと思います。で、そこで大切なのが「その時、どこに向かってるか」先ずは、集中の対象を、その時ドコに定めているのかを自覚してやるのと、しないでやるのとでは、やってる質もやってるコト自体も違うコトになっちゃいますものね。

んで、(今回のお題でゆーと「骨盤底を引き上げる」みたいな)身体操作から「瞑想」方面に向かって近づいていく、僕が感じてるステップ

・先ずは骨とか関節とか筋肉とか、特にそんなかでも外側(皮膚に近いトコロ)への操作から始まって、次第に内側への操作へと向かっていく段階。
「動く」モノは、わかり安いですものね。

・「動いた」ら「在る」のがわかり易いから、先ずはカラダへの「感覚」ってのが養われてきて、次第に(まぁ、その頃には音とか観るとかのアプローチも始めてるかもしれないけど)五感的な感覚の、発育、しいてはコントロール。

・その対象が(もしかしたら次第にまとまってきて)「意識」みたいな抽象的な物(神様でもいいのかな)へ向かう段階。
この辺からは、僕にはコントロールするんだかできるんだか諦めるんだか諦めるべきなんだか、わかりません。
ただなんとなく感じてるレベルなんで。あっ、ほら、やっぱりすっかり体系的じゃ無くなってきた(^^;

で、「アシュタンガ・ヨガを、アンタは今どうやってるの?」を、さらに大雑把にまとめると、

朝ゴハン食べて、電車乗って、会社に行く。仕事をする為に。

みたいに、

いいエネルギー作って(いい呼吸して)、その通り道の流れを良くして(伸ばすとこ伸ばして)、いま運ぶべき、運べる気がする、運ぼうと、行こうとしてるトコロに運ぶ、行く。(内側を感じて、コントロールしてく)。
瞑想する為に。

みたいです。

で、「その瞑想って、アンタにとってなんなの?」

ってコトになると、今の僕には「より本来の自分に気づく試み」で「どうやら、その過程で観る自分と観られてる自分がベッコに居そうだ」「観られてる、つか観てるような気になってるだけの方の自分は兎も角、観てる方の、どうやら本当の自分に近いらしい方は、他の誰とも、たいして変わりはなさそうだ。」ぐらいです。

そんなんも確かめに、インドのマイソールで、とりあえず8月の一ヶ月間だけアシュタンガ・ヨガやってきます。
僕が担当してるクラスは代行のインストラクターで、まんま続いていきます。