今を生きる。

昨日は満月、朝のマイソールクラスはお休み。グルジの誕生日は7月の最初の満月。グルジが亡くなった4日後に亡くなった父の通夜をしたのが5月24日。新月で僕の誕生日だったその日、生まれて初めて喪主をつとめた。

親父が息を引き取る30分位前。僕は親父にクラニオセイクラルっぽく触れた。触れられる場所が限られていたので、僕は肩と腰を、妻には両足に触れさせた。

今まで知覚したことのない、あまりにも強く深い内側での流れ、生命力。ほぼ50秒ずつのペースで、上昇と下降を繰り返す。これこそが「生きる」根源的な力?

あまりの強さに驚いて、どうしても確かめたくて、妻をどかして僕も足に触れてみる。脳梗塞で右半身があまり使えなかった親父だったが、その右側の流れが左より全然強い。

また親父の横に戻って何分か。仙骨の方に降りていったエクサレーションが、ついにあがってこなくなったように、僕には感じられた。親父の顔をみると、呼吸が止まっていた。

先週は伊豆高原で4日間のクラニオのトレーニングだったので、森川ひろみ先生に、その話をして確認する。僕の解釈が相当ズレてたらごめんなさいだが、僕にはこう伝わった。森川先生は、検証・証明されていない事について断定することはしない。

・エクサレーションで死ぬかどうかは(まだ)わからない(「死んだ後もタイドがある」という説や経験を、僕も聞いたことがある)。
・死ぬ前の人の生命力(ポーテンシー)は強くなる(より使用可能になる)らしい。
・死ぬには、とてもエネルギーが必要らしい。
・そのときクラニオしたなら、楽に逝けたのではないか?最高の見送り方だったんじゃない?

その話を聞いたとき、僕は救われた気がした。少なくとも「生きる力」はアップした。

僕は自分ちの宗派が曹洞宗だと思っていた。事実そうだったのだが、父は自分の墓を作るときのお寺さんとの契約「浄土真宗の宗徒として檀家になること」を受け入れていた。父の死後、それを知った。いままで道元の教えに従いたくて、憧れて、模索してきたけれど、あんな風になれたらカッコいいんだけれど、結局いままでの僕には、少なくとも人(特に日本人)や生徒に話すときは、完全には馴染みきれなかった。これからは、また親鸞について、親鸞が模索し行き着いた悪人正機や本願他力について、学びを深めて行くんだろう。

親鸞は「死に際」を重要視しなかったという。「往生」という言葉も「新たないのちの始まり」と考えるのが念仏者らしく、親鸞は「信心さだまるとき、往生またさだまるなり」と言ったという。

住職に聞いたら、浄土真宗では「生きている間に」東本願寺で法名をもらうのが良いらしい。浄土真宗の法名は、いくらお金を払おうが権力を持っていようが、男性は3文字女性は4文字、変わりはない。なんだか、法名をもらった方が、より「今を生きられる」ような気がしてきた。不退の人生へのチャレンジを、僕だってしたい。エゴだろうが、僕は僕。よりよく生きて、よりよく行動したい、行動と模索の先に光をみたい、凡夫のうちのひとり。

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愛情も責任感も人一倍強い父だったけど、父なりにいつもバランスとタイミングを計っていたけど、気性も荒く口も態度も優等生とはいえなくて、よくよく面倒くさがられて、ぶっちゃけ「報われない人だな」と思ってた。

僕が、いまヨガをしてたり、ヨガしてる人やヨガ・コミュニティにお節介をやきたがっていられるのも、親父がいて、親父の介護をしてる間ずっとヨガやヨガ・コミュニティに救われてきたからなのは、間違いないのに。

でも。8年以上ほとんど毎日病院に通い続けた母や、葬儀の「施主」を自らかってでてくれた父の弟や、父の妹、僕の姉夫婦や、孫たちやひ孫という可能性に見護られながら、それ以上は想像できない完璧なタイミングで息を引き取っていった父をみながら、触れながら、

親父は、親父でよかったんだ。
親父が、親父でよかったな。

と、僕は初めて本当に思えた。