なぜ「先生」と呼ばないのか?

僕はいま、ある2つのヨガのカリキュラムと取っ組み合っている。
そのために、いろんな英語の書籍とも取っ組み合ってる。
もし成立すれば、いやさせるんだけど、
生きてる間は、きっとライフワークになるんだろう。

少なくとも僕は英語が得意なわけじゃないし、
体力もそんなにあるわけじゃない。
ぶっちゃけいつでもギリギリだ。

日々のクラスや仕事や
会社やヨガスタジオの運営は、
そんな時も休み無く続く。

仲間がいなければ、とっくにあきらめていただろう。

・・・・・・・・・・

僕には何人かの「先生」がいた。

そのうちの何人かは、もう同じ世界にはいないし、
何人かは、この世界にはいても、近くにはいないし、
何人かは、本の世界でしか出逢ったことがない。

そんな僕も、いつのまにか「先生」と呼ばれることに慣れてしまった。

・・・・・・・・・・

あたりまえだけど、「先生」は、大事だ。

30過ぎても、誰の言う事も聞かず、
自分のやり方だけを頼りにギラギラとさまよい歩き、
勝手に自分を傷つけ続けてきた僕には、
経験として、よくわかるつもり。

上手に教えてもらえれば
どんな人でも
「どこか」までは辿りつけるんだろう。

でも

「どこに行くのか?」
「どうやって行くのか?」
「なぜいくのか?」

自分が考え、自分が決め、自分の足で歩き、時には走らなければ
本当には辿りつけないと思う。

・・・・・・・・・・

誰かが、道の場所を教えてくれた。
誰かが、歩く姿をみせてくれた。
誰かが、その道の暗闇を照らすガイドを、先回りして、探してくれた。

ケンさん、くらさん、
この世界にいてくれて
ありがとうございます。

この2人だけは、
僕は「先生」と呼ばないのだけれど
呼べないのだけれど
それは2人が
僕に目の前を照らす「先生」を運んできてくれた
本当にすぐれたガイドだから。

同じ目線に立つときは決してこないけれど
いつでも同じ高さの目線と言葉で、見守ってくれたから。

そして2人と出逢えたのも
いろんな人との出逢いがあったから。

・・・・・・・・・・

2人がしてきた、していることの真似事が、
そして「先生」たちから学んだエッセンスを
編集してシェアしやすいカタチにすることが、
シェアできる環境をつくる一助になることが、
僕たちにできる使命だと、順番だと、信じる。

そしてそれは
「僕たちのスタイル」として
そろそろ昇華しはじめている気がする。

そしていま
この世界のどこかで、ケンさんと似たような仕事を続けられてて、
松本くらさんと一緒に仕事をできていることを、
僕個人は誇りに思う。

・・・・・・・・・・

ムーンデイで朝のクラスがない今日
いつもより少し遅くおきたら
どうしてもこのことは誰かに言いたくなった。